神社建築として、日本一の規模をほこる出雲大社、古代その高さは48mあったという。
大林組広報部長の林彰 氏が「よみがえる高層神殿 〜古代出雲大社〜」と題し講演しました。会場には一般の聴衆者ら約200人が集り、伝説の高層神社「出雲大社」について、
自信が十数年前に手がけた神話の検証、その後の発掘調査で物証された高層神殿の姿や建築方法などについて次の様に語った。
復元作業の資料となったのは、出雲大社の宮司家に門外不出として伝えられた『金輪造営図』。古代出雲大社の設計図とも言うべき「指図」で、無理にお願いし見せてもらった不思議な図面で、簡単には理解しにくい平面図であった。
その中には建物正面に階段状のものが描かれ「引橋一丁」と記されていた。一町とは約109m。このような長大な階段を持つ建物の高さが、いったいどれくらいあったのだろう?想像を絶するものであったに違いない。
更に際立って不可解な描き方がされていたのが柱であった。図には9本の柱が描かれてあった。いずれも大きな円の中に3つの小円が描かれ、柱口一丈(3m)と記載されていた。今までこんな表現の図面は見た事もなく、
いくら古代であっても直径一丈もの木がわが国にあったとは考えられない。そこで私達は直径1mの大木3本を束ね直径3mの太さに組み合せ巨大な柱としたのではとの考えに至った。その際、鉄製の金輪で締束ねたことが、この図の由来でもあると考えた。
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その巨大な柱を継手で長さ12丈(36m)や14丈(42m)につなぎ合わせ、これを最大45mの長大な柱として組み上げ、空中30mしかれた神殿を支えたと解釈した。
我々の行った復元は、設計図を起こす事であった。建物の形を明らかにし、建物が建つために必要な構造計算や工法や工程などの工事計画など実際に高さ48mの建物の建設が可能であったかも検証した。
構造的には、古代の初期的技術から各部材が厚く・大きく・重いことから構造が強固となり、試算では中震程度の地震や強風30m/秒の台風でも問題ないことが証明されたが、実際には地盤などの関係で7回倒壊したとの記述もある。
高さ40m前後の柱の建立は、穴を掘り柱を寝かせ強力なろくろを用い引き起こしたとされる。その後、柱に仮支えし、引橋(階段部)をつくり、そこから資材を搬入し高層神殿をつくり上げたとされる。
総工期は木材の調達から約6年。総工費は現代価格で約122億円。延べ約12万人が従事されたとされる。このように建築技術上、十分に高さ48mの本殿が存在したことを明らかにした。
その後、十年の歳月が経過。2000年4月に、境内から古代末頃の巨大な柱が発見され、仮設が裏付けられた事、神話のもつロマンについて語られた。
長野支部50周年記念講演より
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